ラム族のバラクエルの子にして、義人ヨブの友、老エリフが語った言葉。
ブズの地。異教の神々の礼拝所にて。
ブズの地の人々よ。我らが主の御手によって、かの始まりの大地からもたらされた同胞達よ。聞け。
おまえ達はこんな所で何をしているのか。今の世の中を覆い尽くしている暗澹たる情勢を、おまえ達はまったく以て正しく把握していないとでも言うのか。
おまえ達も痛感しての通り、これまでに例を見ないほどの旱魃が、私達の町を襲っている。荒波のように大地を呑み込む旱魃はこの土地に不作をもたらし、不作は私達の胃に飢えの苦しみを与えんとしている。おまえ達の所有する耕地の中で、今年ひとつでも作物が実った者があれば、名乗り出るがいい。どうだろうか。一人としていないのではあるまいか。大地は干からびて地割れを起こし、至る町で食べ物が尽きかけている。口に入る物ならなんでも物価は上昇の一途を辿り、金のない者は身を売ってまで食物にありつこうとするが、それでもまだ足りない。聞くところに依ると、この飢餓の危険はなにもここ一帯の地域に限った話ではないようだ。それはどうやらカナンの全域、そしてその先の国々までを脅かしていると聞く。これによる甚大な被害は今なお疫病のように広がって留まることを知らない。この地に最後に雨が降ったのがいつだったか、記憶している者があれば言ってみよ。井戸が枯渇し、やせ衰えた川が干上がるのも時間の問題ではないか。ただでさえ貧しい人々は常にいる。彼らの内では既に死人も出ている。しかしながら多くを持っている人は出し惜しみ、見通しのひとつもつかぬが故の不安に駆られては更に蓄えて、そうすることで隣人のいのちを圧迫している。飢え故に人々は苦しみ、それまでは善良だった人間も盗みを働き、誰もがあの人より私がと、なんとかして空腹を満たそうと日に日に見境のない行為に次から次へと手を染めてゆく。危機を察した外国の商人は早くも盗人を警戒して店をたたんでそれぞれの国へと帰り、ただでさえ数少ない食物の供給口はこうしている間にも次から次へと絶たれてゆく。
だが、聞こう。兄弟達よ。いつから私達は盗賊になったのだろうか。おまえ達のそれぞれの隣にいる人と協力するその善良なこころを失ってしまったのだろうか。いつから悪を容認し、その上にすまし顔のまま寝っ転がることを良しとするようになってしまったのか。
しかし、私がこれから語る言葉が、どうか神である主の御前で出過ぎたものとなることのないように。また仮にそうなるにせよ、一刻も早く人民の根本からの軌道の修正が要請される、かような一大事に及んでは、どうか主が私の傲慢と腹立ちとを許してくださいますように。
かのアブラハムの兄弟であったナホルの息子、ブズの子孫達、我が同胞達よ。わからないのか。今こそ忍耐の時である。我々をお造りになった方が我々を試されているのだ。我々は我々のこころを強く持って、天地の創造から現在に至るまで、あらゆる形を伴っていのちを育み続けてきた、我らが全能なる主に善と信仰で以て応えなければならない。
しかしどうしたことか。おまえ達はこの丘にこんな建造物を築いた。ここは何だ。この汚らわしい場所は。この小さな金の像は何だ。あの仰々しい石柱は何だ。この生贄の驢馬は。祭壇に巡らされたこの銀細工は。おまえ達が生まれてこの方、主を知らなかったというのなら、話はまだわかる。その場合おまえ達は純粋な異教徒だ。しかしそれは違う。おまえ達は主が誰であるか知っている。それなのにおまえ達はここでバアル神だアシェラ神だと憚ることなく抜かして、こうして像までこしらえて堂々と邪教の神々を崇めては、ありもしないその力で以て、今現在我々に襲いかかっている危機からどうにかして救ってもらおうと一番の頼みにしている始末だ。兄弟達よ。どうしてこんな不義が働けるのか。おまえ達はそうすることによって我らが神である主に唾を吐きかけているのがわからないのか。
一見、おまえ達は救いを求めているようだが、実は違う。なぜならば腹の底から救いを望む者の胸には、必ず主に対する畏敬の念が宿っているものだからだ。真実に無頓着なおまえ達の為に私が声に出して言ってやるが、結局のところ、おまえ達は自分達の欲望によって破滅することを望んでいるのだ。傲岸不遜で羞恥心の欠片もないおまえ達にとっては、神とて欲求を満たす為の単なる道具に過ぎない。
所詮おまえ達には、神とて毎日着替える衣服のようなものに過ぎないのだ。おまえ達は風向きが変わるように信仰する神を変える。忌々しいことに、おまえ達は穢れた動物だろうとお構いなしに生贄に捧げて、なんとかして邪悪な礼拝の効果を得ようとするが、どうもうまくいかない場合には、すぐに別の神に、別の像に飛び移る。あっちの神が駄目ならこっちの神で。こっちの神が駄目なら向こうの神でといった具合に。あえて聞くが、先週祀っていた像はどこにいったのか。ここに落ちている破片は、その一部ではないのか。おまえ達は神を当てにするが、こころから神に服従することなどまったくない。たとえおまえ達の神である主が、口うるさいおまえ達に振り向き、その願いを寛大な御こころで聞き入れようとも、おまえ達の方ではすぐにその恩を忘れてしまう。結局のところ、おまえ達のうち誰ひとりとして神を信じてなどいないのだ。おまえ達のやっていることは遊びである。それも神々を用いての遊びである。こんな惨状になるくらいだったら、ひとつの異教の像をじっと守り通している方がまだマシだった。信仰の厚い異教徒の方が、神を流行りとしてしか考えていないおまえ達よりもまだずっと主の近くに位置していることだろう。
自分のからだを見てみよ。その土塊に血を巡らし、息吹を吹き込んだ方が誰であったか、どんなに忘れっぽいおまえ達とて、己が五体という不思議をまじまじと見つめれば、立ちどころに思い出すはずである。
それにもかかわらず、おまえ達はバアルを正面に据えて、主を脇に追いやって、遥か昔に主の名の下に築かれた、我々の嗣業たる町に唾棄すべき習慣を蔓延させて、今やその権威を余すところなく失墜させている。実際、これは病的である。ソドムとゴモラさながらだ。そのふたつの町は主の御前で下劣極まりない悪行に悪行を重ねて、遂には硫黄の嵐と炎の槍で以て悉く滅ぼされた。まさかおまえ達とて、自らそのような目に遭うことを望む訳ではあるまい。兄弟達よ。どうかこれらの町から学べ。これをこころに留めて、忘れるな。
カインに始まる流血の罪業をこれ以上続けてはならない。邪教の儀式において、これを更に助長し、況してや率先して執り行うことなど、あってはならない。それは忌むべき文化である。我らが先祖の兄弟アブラハムの話はおまえ達も聞いていよう。アブラハムの揺るぐことなき信仰を前に、主はその息子のいのちを刈り取ることを拒まれたではないか。
救いを得るに必要なのはあまたの生贄でも、割礼でもない。まずは錯乱した雄牛さながらの行き過ぎた欲望を捨て去れ。そしておまえ達の神である主を信じ、畏れ、己がこころを主に託せ。必要なのはそれだけだ。アブラハムが義とされたのは、まことにその一点にあったことを、おまえ達はしかとこころに留めるべきである。
主に立ち帰れ、兄弟達よ。これら異教のまやかしに過ぎない玩具を打ち砕いて、おまえ達の先祖を土からこねて造り上げられた方の、その御手の中へと舞い戻るがいい。しかし、利益としての地上における延命の為に、人は主に立ち帰るのではない。人が主に立ち帰るのは、人が自然と赴いてゆく飽くことなき欲望をなんとかして十分に満たす為ではない。それは死にゆく定めにある各人が身の程を知り、その身に降りかかる様々な出来事、困難、悲しみ、喜び、目に入るもの、耳にするもの、手に触れるもののすべてを受け入れて、そして誰もが予想だにしない仕方で、記憶の片隅に残ってすらいない始まりの故郷の幸福に包まれて、霧や露のように消えてしまうことのない永遠の喜びと平安を知って、これらに与る為である。
今、私は言葉で以ておまえ達に語っているが、おまえ達はそれを計算高い頭脳で以て受け止めてはならない。私の言葉はつまらぬ損得の勘定から導かれるのではなく、またそこには邪なこころで以て神を当てにした如何なる予見も含まれてはいないからだ。私の言葉は私のいのちから来ている。そして私のいのちはこの大地から、川を流れる水から、また肉を持ち繁殖するものの肉から、空を満たす空気から出来ている。そしてこれらすべては神である主によって創造されたのである。しかしおまえ達は未だ自分達が神の被造物であることを知らない。知ろうとしない。
実際、おまえ達の中には神の存在など端から気にかけていない輩が沢山いるではないか。彼らは言う。「神はいない」と。そして彼らの悪魔的な教えに惑わされた人々は、信仰において迷子となり口々に疑問を呈す。「神はいるのか、いないのか」と。しかし、はっきりと言っておくが、我らの神である全能の主は、そもそも「いる」「いない」で語られるべき領域のお方ではない。存在する仕方そのものが、我々被造物である人間とはかけ離れているのである。
「だが、そのような普通ではない、我々の理解の及ばない特殊な存在を、どうして認めることができようか」とおまえ達の内のある者は口にするだろう。「神を認めないと私達の考えることのできる事態が存在するのは、そもそも神が存在しないからだ」そう彼らは主張する。「というのも、仮にもし神が存在するならば、神は自身の存在を予め私達に明らかにしておくことだってできたはずなのに、そうはしないで自ら己の姿を覆い隠すような真似をしているのは不合理であるからだ」と。しかし、どうして万物の造り主であるお方が、わざわざおまえ達に自らの存在を弁解せねばならぬのだろう。ただそれができるからといって、なんでもかんでも行ってよいという訳ではないことが、神をかたどって造られたはずのおまえ達にはわからないとでも言うのか。それは悪魔の言い分である。尤も主を知るには、本来ならばおまえ達が存在すること、それをおまえ達がそのこころでしかと受け止めさえすれば、それで十分なはずなのであるが。
私は次のような声を聞いたことがある。「生きている間に我々人間が何をしようと我々の勝手じゃないか」また私は聞いたことがある。「神がいる証拠はない。それ故どういう訳であるかはわからないが、ともかく世界というこのような事態が偶然存在する」また私は聞いたことがある。「私が死んだら、世界は消えてなくなるだろう」
だが、そのように主張する者達は、これほどの無思慮、傲慢さを、一体誰から学んだのだろうか。糧にあり余り平穏に胸中の凪いでいた、かつての幼子の日々がこの町にもあったことについても、そのような者達はただの偶然だとでも言い張るのだろうか。
なぜ自分達で物を考え、選択することができるか、主の被造物でありながら、こうしてアシェラ神を祀ることができるのか、おまえ達は考えたことがあるか。今一度アブラハムの物語を思い出すがいい。主はアブラハムのひたむきな信仰を、その正しき選択をたたえたのである。求められているのは信じることであり、それはおまえ達の選択にかかわる事柄なのである。
しかし、それでもまだおまえ達の内のある者は首を傾げる。そして「やはりこの世を造った存在者がいるというのは、どうしても信じられない」と口にする。ああ。人は何度洪水によって流されれば、過去と同じ過ちを繰り返さなくなるのだろうか。かく言う者はまだ、己の存在が主によって充てがわれていることを理解していない。
私はおまえ達にあえてこう勧めよう。誰がこの世を造ったかは、ひとまず置いておけ。そしてまず世界と自分達とが造られたものであることを知れ。これらをお造りになった方、それが神であり、おまえ達の主である。
だが、それでもおまえ達の内のある者は、神である主に対する無礼なことこの上ない憤りから口にする。「神は私達の言うことを聞かない。神を信じてどうなる」またおまえ達は言う。「神は理不尽だ。ソドムとゴモラを除いても、それに類した町はまだあるのに、なぜ悪はそれらの町で繁栄を続けているのか」と。おまえ達は言う。「神を信じ、崇めたところで、救われるとは思えない。あなたは一丁前に神を信じ、善を積んでいるようだが、ではなぜこの町で、今、信仰なき私達共々飢餓の危機に晒されているのか。これはおかしなことではないか」と。
おまえ達は、神が信仰に対して報いてくださらないと感じている。信じて馬鹿を見るくらいなら、信じない方が利口だ、という訳である。おまえ達の中では、事実、こうした神である主を侮った態度によって、地上における成功を勝ち得た者もいる。彼らはそうして「神なんか要らない」と主張するに至る。彼らは神を捨て去ることでどの時代の賢人にも増して賢くなった気でいるが、実際のところ人間の野蛮さに変わりはない。私の目にはむしろそれが悪化しているようにさえ映る。彼らは聞くのも見るのも耐え難い蛮行に化粧をうまく施して、悪行に日中の町中を練り歩く権利を与えているに過ぎない。それが知恵を働かせた結果であるというのなら、確かにこれは立派な知恵だろう。だがそうした恥知らずな知恵がソドムを生み出し、またゴモラを生み出したことは、まったく以て疑いようのない事実である。
はっきりと言っておくが、頭だけで考えている限りでは、神を信じることの意味は決して見出だされることがない。おまえ達が態度を改めないで、ずっと己が欲望の内に座している限りは、主に対する信仰の意味は、偏狭で、目先の物事しか気にしない、獣じみた落ち着きのない姿勢の裏に隠されたままである。
しかし、私はどうにかこれを明らかにしようと試みておまえ達に語ろう。それは一縷の望みかもしれないが、とはいえ希望が枯渇している訳ではない。というのも神は決して人類を見捨ててなどはいないからだ。おまえ達が言葉を話し、言葉を理解することの内に、その希望の種子は根差している。
いいか。おまえ達、同じ大地の上に臥してパンを分ける私の兄弟達よ。神が私達の願いを聞き入れるかどうかで、我らが神である主をはかってはならない。神の恵みはそんなところにあるのではない。一塊の土の塵に過ぎない人間が知り得る最大の知識とは何か。我らが神である主に対する畏れ、これがそれである。願わくは人間の力を過信するおまえ達の靦然とした物の見方を、どうか主に対する畏れが完膚なきまでに打ち砕いてくださいますように。
私は今からある義人について語ろう。彼は名前をヨブと言った。彼が主の御許へと召されてからまだ一年と経っていない。ここにいる者達の内の一番若い者だろうと、その名前くらいは耳にしたことがあるだろう。彼はまことに主に対して真っ直ぐな人だった。私は彼について語ることで、神である主の偉大さと、主を信じることの救いを少しでも人知の明るみに引き出せればと思う。私の語る言葉が、いつの日かおまえ達一人ひとりにとっての水となることを願って。
これは私の務めである。また主に導かれた私の信仰心が、私をしてそうせしめるのである。
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当時、ヨブは隣町のウツに暮らしていた。彼はその町きっての有力者だった。彼には七人の息子と、三人の娘がいた。家畜の数は数え切れぬ程で、仕える者も非常に多く、ヨブを知る者の内で彼を尊敬しない者はいなかった。というのもヨブは常に神を畏れ、常に神の御こころに適うことを行って、常にその教えから逸れることがなかったので、彼の得ていた最高級の富や地位などは、その折れることのない強い信仰心の故なのだと、誰もが信じて疑わなかったからである。
しかし、なんという災いか、たった一日の内に、そのすべてが奪われたのであった。禍事がヨブを襲った。ある日、ヨブの子供達が皆で集まって宴会を開いていた時に、カルデア人とシェバ人と思しき盗賊が彼らを襲い、皆殺しにし、ヨブの家畜を奪って、また反抗する者は誰でも刃に掛けて血の海に浸した。
ヨブとその妻はこの知らせを受けると、それはもう息絶えんばかりにこころを痛めて、声が枯れ果てるまで泣き叫んだが、ヨブはそのあと地にひれ伏して、主に祈りを捧げて言った。「私は裸で母の胎から出てきた。また裸でそこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。私は主の御名をたたえよう」
しかしこれで災いがヨブの許を過ぎ去った訳ではなかった。それからひと月と経たない内に、別の困難がヨブを襲った。夥しい数の腫れ物が、ヨブの全身を覆い尽くした。ヨブは土器の欠片でからだ中を引っ掻いて、灰に埋もれて痛みをごまかした。
時に妻がヨブに言った。「ヨブ、あなたはこれでもなお自分の誠実さを堅く保とうとするのですか。神を呪って死んだ方が楽ではありませんか」
ヨブは妻に答えた。「私達が主から受け取るのは幸いだけだろうか。主が与えられるものであれば、私達は災いだろうと受け取るべきではないだろうか」
しかしその時には既にヨブも憔悴しきっていた。彼にとっては日中の日照りは存在せず、月光さえ覗かない長い夜が彼の行く末を果てしないまでに覆っていた。ヨブは妻に顔を見せることもなくひもすがら灰の中に寝込んでは、ただ小さな子供が宵闇に怯えるように、痩せこけたからだを丸めて震えていた。妻もとてもではないがこれ以上夫の惨めな様を見てはいられずに、その痛ましさ故に以降は声をかけることすら憚られた。
ここまでの話はすべて、後日私がヨブと彼の妻から直接聞いた話である。そしてこれから話す部分は、実際に私がこの目で見、この耳で聞き、しかとこの魂に留めておいた内容である。兄弟達よ、どうか今一度姿勢を正して、私の話に耳を傾けて欲しい。
当時、私はまだ齢にして三十にも満たない若輩者だった。私はここより南方の地、シュアハで遠い親戚に当たるビルダデという品性に優れた老人に仕えていた。ビルダデはヨブと親しかったので、ヨブに降り掛かった一切の災難のことを聞くなり、酷くうろたえてそのこころを痛めた。程なくして彼はヨブを慰める為にウツの地へと向かったが、その旅に私も同行することになった。また同じくヨブの友人であるエリファズという人と、ツォファルという人が、それぞれ自分の町から出てきて彼の許に集まった。
私達はヨブの家に着いたが、とてもではないが彼に目を当てられなかった。その姿は見るからに痛ましく、その場にいた誰もが言葉を失った。私はヨブと初対面であったが、彼をよく知るはずの他の三人が、その時こぞって狼狽している様子を前に、ヨブを襲った出来事の重く取り返しのつかないことを改めて胸裏の奥で受け止めた。事実それは想像を絶する程の出来事で、私はもうその日はパンの一欠片とて口にすることができなかったくらいである。
ヨブの妻は私達を通してくれたが、ヨブは終始黙り込んで、からだを掻きむしったり、灰の上に臥せっては寝返りを打ったりしていた。そして気紛れに膿んだ部分から膿を取り除いたり、そこに灰を掛けたりしていた。おまけにヨブは熱を出していたので、とても口が利けるような状態ではなかった。
私達はそのまま七日の間ヨブのそばにいた。一言も彼に話しかけずに。私達はそうして共に嘆き悲しんだが、無限の火炙りの如きその苦痛をヨブから取り除くことは到底無理な相談だった。
私達はヨブが臥せっている間に、まず彼の妻から事の経緯を仔細に渡って聞いた。彼女は怒りと悲しみに囚われていたが、その双方を虚無と諦めとが蝕み、見るからに哀れで、彼女もまた絶望の只中にいた。私達は彼女を励まそうとしたが、あまりうまくはいかなかった。
それから私達はなぜヨブがこのような惨事に見舞われたのかを話し合った。ヨブの家に集まった、彼の旧友であるビルダデ、エリファズ、ツォファルのうち誰ひとりとして、ヨブがかくも惨たらしい災難に値するなどとは考えていなかったからである。
と言っても私自身はさしずめ意見を述べずにいた。私はヨブを知らなかったし、彼ら三人の内で一番歳が若い者よりも更に二十は若かく、とても口を挟めるような身分ではなかったからである。私は聞き役に徹して、その論をよく呑み込もうと務めた。
彼らはまずヨブの身に起きたことが災いであるか否かを確認した。彼らは三人ともヨブの身に起きたことは災いであると考え、この点で意見を一致させた。
次に神である主がいついかなるときに災いを下すかを議論した。時にエリファズが言った。「潔白なのに滅ぼされる人があるだろうか」と。「主に責められて然るべき過ちを、ヨブは人知れず犯したのではあるまいか」
「だが、やはり、ヨブが罪を犯したとは考え難い」とツォファルが言った。
「では」とビルダデが口を開いて、二人の意見を折衷して言った。「ヨブが不正を犯したとは限らない。彼の子供達が罪を犯したのではないか」
しかしビルダデの意見も考え難かった。というのもヨブはこのような災難に見舞われる以前は、自身の子供達が密かに罪を犯しているかもしれないと恐れては、念には念を入れて子供達の為に主に燔祭を捧げることを習慣としていたからである。
『では罪を犯したのはヨブの子供達ではなくヨブの先祖の方だろうか』『しかし先祖の犯した罪の罰を、その子孫のヨブがこの時分に及んで受けるというのは、少々考え辛くはあるまいか』彼らは更に議論を重ねた。『神の御こころは計り知れない。もしかしたらヨブ自身が気づかぬところで、何事か神の御こころに沿わぬ過ちを犯してしまったのかもしれない』『その通りだ。人知を超えた神の正義においてヨブが尚も正しかったと誰が保証できるだろうか』『ヨブが彼自身にとっても見えざる悪を働いたというのなら説明がつく』
議論はこのように続いていった。そして私もまた口を開いた。私にも言い分があったからである。
私は言った。「神の御こころが計り知れないという点は、確かに仰る通りだと思います。しかし神が悪と見做す事柄が人間のこころに見えないというのなら、それにヨブが、皆さんが尊敬してやまないあのヨブがその悪を働いたというのなら、それは一体どんな悪なんでしょう。もしかしたらそれは私達人間の間で善と呼ばれているものかもしれません。そして仮にもしそうだとしたら、私ならきっと神を呪っていたことでしょう。いや、ヨブの為にすら、今すぐにでも私は神を呪うべきでしょう」私はそう言った。しかし三人の内で私の言葉に耳を貸す者はいなかった。というのも彼らは悪事は必ず天によって罰せられ、また天から災いが下るところには必ず悪事があると確信していたからである。
その後もヨブの問題は酷く彼らの頭を悩ませた。彼らは事の原因となり得る様々な可能性についてつぶさに確認していったが、最後は大まかに包括して、ある人に罰が下されるのは常にその人の罪の故であることから考えるに、ヨブ自身ないし彼の周囲に、故意にせよそうでないにせよ、何か神が見過ごしてはくださらない過ちが、不正が、悪が罪があったのだという点で、彼らは意見をひとつにした。
そしてヨブの家に来てから八日目の朝に、私達四人は揃って再びヨブの許に臨んだ。その時ヨブは泣いていた。どうやら夜通し寝付くこともなく、己に耐え難い現実を突きつける両の目を泣き腫らしていたようだった。
ヨブは私達に気づくと、傷だらけの醜いからだを起こして、自らの出生を呪って、己の惨状をほとんど泣き叫ぶようにして訴えた。「私は生まれてこなければよかった。私がこの世にもたらされた日が、滅んで消えてしまえばいいのに」と。ヨブは続けた。「なぜ私は母の胎内で死ななかったのだろうか。なぜ胎を出た時に息絶えなかったのだろう。その時にへその緒のみならずこの首も一緒に断ってくれていればよかったのに。そのまま墓場に送られていたら、どんなによかったことか。その時に目を開けることもなく死んでいれば、今頃私は安らかに眠っていられたはずなのに。今の私がどれだけ死ぬことを求めているか、あなた方の内で分かる者がいればいいのだが。たとえ一千の輝きを放つ宝石と死が横に並べられていたとしても、私は迷わず死へと向かってこの手を差し伸べる。人間の知恵では到底及びもつかないような災いが私の身を襲って安らぎを奪い、憩いを消し去り、二度と這い上がることのできないような混乱の淵に叩き落としたのだから。ああ、どうして私は生きているのだろう。どうしてこれ以上生きていられるのだろう。どうして神は私を殺してはくださらなかったのだろう。こころから出血する程に胸中をずたずたにされ、魂の骨とも言える中枢の部分を絶望にすっかり蝕まれてしまった者に、どうして尚いのちが与えられているのだろう」
そうしたヨブの痛ましい嘆きを前に、私達は昨夜自分達で考えた意見を述べることをためらった。というのもそれは折しも耐え難い苦しみに呻き嘆いているヨブに、他ならぬ彼自身に非があったことを告げずにはおかない内容だったからだ。しかし私達もヨブの家に滞在して八日目である。いつまでもぐずぐずしている訳にはいかなかった。エリファズが先陣を切って物腰柔らかにヨブに語り掛けた。そしてビルダデとツォファルが続いてヨブに意見を述べて、私達はヨブにこころを改めるよう切に願った。
しかし、ヨブはこれを受け入れなかった。ヨブは怒りを露わにして言った。「友よ。どうしてそんな愚にも付かない意見を述べるのか。私の嘆きを正しく聞いてはくれないのか。反論するのではなく、私に同情し、憐れむのが友の役目ではないか。私のどこに不正があったとあなた方は言うのか。思い直してくれ。今問われているのはまさに私の正しさに他ならないのだから。しかし、何をどうこう言ったところで、何も変わりはしないだろう。神は絶対だ。所詮は土の塵に過ぎない人間が何と訴えようと、この世の全権を握る神がその声に耳を傾けてくださる訳がない。私がどんなに清廉潔白であろうとも、神の御前では不義とされ、悪しき者とされる。神よ、あなたはそうして善人も悪人も等しく滅ぼされるのです。私は善に忠実であった故にこのいのちを厭い、我が身を呪わずにはいられません。ああ、しかしそれでも尚、神と私とを取り持つ仲介者がいてくれたら、と思いを巡らしてしまう自分がいます。主であるあなたがどうか私の言い分を聞いてくださるように、と。本当はこの私に悪しき点などないことを、全能のあなたはすっかりご存知のはずなのですから。まことに人間というのは儚い存在です。人はあなたの設けた限界によって去り行きます。人は死んだらおしまいです。それなのにどうして自由にさせてくれないのでしょうか。どうしてその上この世での裁きが必要なのでしょうか。どうかもう私にかまわないでください。お願いします。災いを投げ掛けるあなたの御手を私から遠ざけてください。死の恐れよりもこの魂に重く伸し掛かる、生の止め処ない苦しみから私を解放してください」
以上のヨブの言葉を受けて、私達の方ではエリファズが口を開いて答えた。彼は言った。「あなたは今自分が何をしているか理解しているのか。あなたは自分が口にした言葉を自分の耳で聞いていたか。明らかにあなたはあなたの神に盾突いている。敬虔であることを忘れ、神を畏れることを忘れ、祈りを忘れ、神に向かって苛立っている。神を知っている身にとって、これほどの傲慢が他にあるだろうか。友よ。もうよそうじゃないか。あなたは私達の言うことを素直に聞き入れるべきだ。神があなたを罰するのは、あなたが罪を働いたからに他ならない」
しかし、ヨブは動じることなく切り返えして言った。「いや、罪を犯しているのはあなた方の方だ。あなた方は闇雲に、何がなんでも原因の咎を私の内に見出そうとする。くっつきはしないものを、何とかこじつけようとして無理に押し込む。私の魂の内にはいかなる穢れも、埃のひとつも付着してはいないというのに。これでは罪の捏造だ。酷い謀だ。罰を恐れたほうがいい。じきに神の裁きが下るだろう」
これを受けて、私達の内で次に口を開いたのはビルダデだった。彼は言った。「あなたは自分は清く正しいと言い張るが、その根拠は何か。何を以てあなたは自分を清いとするのか。あの人よりは清い、この人よりも清い、と言ってか。誓って言うが、何者も神の御前では清くまた正しくはない。あなたは神に対して驕り高ぶらぬよう気をつけるべきだ。そして主に対していつまでも反抗するのではなく、その御業が語りかけるところをしかと自身の胸に問うてみるべきだ。ヨブ、どうかまずは理解せよ。それから語り合おうじゃないか」
しかしヨブは重ねて反論した。「私が言葉を交わしている相手が、無知な人間ではなく全能の神であればよかったのに。そうしたら私は自身の潔白を証明できただろう。万が一、私が不正を犯したにせよ、それについて尋ねることもできただろうに。しかしこれはやはり何かの手違いなのだ。神と話せば、神はわかってくださる。しかし主は私の許に現れてはくださらない。どうしてなのだろう。あなた方は神に背く者は滅ぼされると言うが、実際はどうだ。彼らの多くはのうのうとこころも安らかに暮らしているじゃないか。彼らは主によって高められてはいないだろうか。ああ。どうしてなのだろう。神のなさることは計り知れない。あなたが私に語りかけてさえくれれば、どんなによいことか。こういう目に遭った今、私は一層強く主を信じている。それゆえ私は死に絶えるまで、いや死してなお主に自らの潔白なことを主張し続ける。絶対にやめない。主はこころ正しき者の声を聞いてくださる」
それから沈黙が訪れた。私達は押し黙って、会話が途切れた。もはやヨブには何を言っても通じないように思われた。場は緊迫していて、険悪な気配に包まれていた。各人が神経を尖らせていたその状況は、本来私達がもたらそうとしていたはずの宥めの平穏からは程遠いものだった。
この場に及んで、私はとうとう耐えきれなくなって口を開いた。厚かましかったかもしれないが、どうしても述べなければいけないという血気にはやった良心の衝迫が、危険な状況にもかかわらず、年端もいかない私の辿々しい舌をのべつ幕なしに駆り立てた。
私は言った。「ヨブ、どうか聞いてください。あなたが苦しんでいるのは、私が思うにあなたが悪をなしたからではありません。それは誰よりもあなた自身がよく知っており、これまで私達に語ってくれた言葉の数々もそれを裏付けていると思います。災いというのは、しかし、それは常に神の御手とその摂理とに委ねられておりますが、神が無償で私達にお与えになる場合もあるのです。それは無意味であることとは違います。それはちょうど神が私達に無償でからだを与え、この世界を与え、幸せを与えてくださることと同じです。それらは共に、人である私達に対する神の愛から、神だけが知る時宜に従って、然るべき時に与えられるのです。それらはいずれも、私達が主の栄光を知って、その輝きの減ずることのない光の道を、すなわち善の道を、私達人間に歩むようにさせる為です。あなた自身、言ったと聞いています。『神は与え、神は取り去る』と。その通りです。どうかそのことに今一度思いを巡らしてみてください。しかしまた次のことも忘れないでください。それは神のお与えになったもの、取り去られたものは、神がお与えになってからも、また神が取り去られてからも、等しくずっと神のものであるということです。あなたの喜びが、あなただけのものではなく、あなたがそれを神から受け取り、神と分かち合うように、あなたの苦しみ、この上ない痛みもまた、あなただけが所有するものではありません。確かに悲哀や苦悩は、意志の脆い私達を引き裂き、孤独にして、永遠にあるものからの隔絶を促します。そういう時に、移り気な人間という被造物は、親である主を忘れて自ら絶望に走って、世に溢れる神の栄光を覆い隠してしまいます。しかしながら、一度でも神である主に畏れを抱いたことのある者が主を遠くに感じている時、主を遠ざけているのは、主の御業ではありません。それはその人自身です。だからそういう時こそ、人は耐えなければなりません。主から遠ざかろうとする憂いの内攻に耐えて、決して憎悪や絶望といった傲慢の四肢に囚われないで、主に対してこころを開いて、真っ直ぐに主を呼び求めなければなりません。なぜならそうすることで、あなたは再び、自分が主の為に何をなすべきかを知ることができるからです。どのような境遇にあろうとこころを開いておくことが、あなたにあなたが歩むべき善の道を教えてくれます。それは被造物に溢れる主の栄光を受け取ることによって実現しますが、人間のこころというのがまさに、主の栄光を受け取る為の透明な容れ物だからです。それは恐らく、どの人間が考えるよりももっともっと大きな領域を持っています。その広大さの故に、それを内に秘めているはずの当の人間自身が、思わず膝を落としてしまうくらいです。思い出してください。早朝の小鳥のさえずりと、清々しい大空の広がりとを。それにまどろみの明け方に、芳しい草木や花々を輝かせる露と、その背後で徐々に昇りゆく、昔あなたの胸に希望とあこがれの灯火を差し込んだ尊い太陽とを。そうすれば、その時にはもうあなたは既に自分のこころが開いていて、以前よりもずっと神に近づいていることを疑い得ないはずです。私達はその誉れ高き光に満ち溢れた領域から立ち上がって、これを知り、また押し広げることを通じて、神の栄光に与りながら、その際限なき偉大なる恵みと摂理に馴染んでゆくことができるのです。
ですから、ヨブ、無為にひとりで苦しむのはよしてください。そして神が良しとされる、すべての正しいことの為に、神と共に苦しんでください。小言はもう言わないでください。代わりにこころを開いて祈ってください。いついかなる時であろうと、私達の神である主に付き添って、主を正しく知ってください。ただ静かにして、主をあなたの拠り所として、主に身を寄せていてください。あなたがそのようにしさえすれば、主は必ず報いてくださいます。なぜならそのことだけが、あなたに主の栄光に与ることを許し、あなたの深い絶望の故に止まった人生の時を、以前のあなたの輝かしい時分ように再び動かすことができるのですから」
ここまで言い終えて、私は息を切らした。私は自分の言いたかったことを余すところなく口にしたつもりでいたが、エリファズ、ビルダデ、ツォファルの三人は、やはり全体として納得のゆかないといったような表情をして、私に鋭い視線を投げかけていた。しかしヨブは違った。ヨブはここにいる者達の中で、私を含めて誰よりも神に近い人物であったので、私の言ったことがよく呑み込めたようだった。私は確かに神の栄光から授かった言葉を語ったのだが、話者である私よりもずっと良くその言葉を聞き取り、それから多くの内実を受け取ったようだった。こうしてヨブの顔を曇らせていた陰鬱の庇は取り去られ、ヨブの眼には段々と精力が漲って、目覚めたばかりの幼子のように、顔中に活力がよみがえった。
ヨブは言った。「私はどうやら、間違ったことを述べ立てていた。あなたは私に不正がないと言ってくれた。それはとても嬉しかったが、他方で私は自身に途轍もない罪があったことに今気がついた。まことに私は全能の神である主を傲慢を極めてまで呼び出そうとした。我にもなく、私は自身を主と対等の存在者として天の上に据えていた。私の主に対する呼びかけに不正があったことを、あなたは私を主の栄光へと引き戻すことによって省みさせ、気づかせてくれた。あなたは私達が主の粘土に過ぎないことを今一度思い出させ、その真実の教えに深く揺るがぬ杭を打って私をつなぎとめてくれた。今、私はこころを尽くして思いを致す。私が産まれるよりも前に、始まりの地の基を定めたのは誰であったか。空を青く透明にし、広大な空間を与えて風を吹き渡らせ、遥か高くに聳える山々を据え、海の境界を定め、青々とした木々に実をつけたのは誰であったか。また種々様々な動物を造り、いのちの息を吹き込んで、意志を持たせ、知識を呑み込む理解を持たせ、地に増えさせたのは誰であったか。私の存在の錨を時の底に落としたのは誰であったか。またそれを引き上げるのは誰であるか。私にこれまでの喜びと悲しみを与え、またこれからの喜びと悲しみを与え、これらの言葉を与え、生きることの意味へと私を向かわせてくれるのは一体誰であるか。私はもはや主を声高に呼び求めたりはしない。そういう時は静かに、こころを尽くして『主よ』と言おう。なぜなら主はすぐそこに、いつだって私のそばにいらっしゃるのだから。主よ、私はあなたをほめたたえます」
こうしてヨブは主に立ち帰った。まもなくヨブの病気は癒えて、彼の周りを再び主の栄光が取り囲むようになった。その後も私はヨブと交流を続け、彼から多くを学び、ふたつとない友情を育んで、共に神の御名をたたえた。そしてヨブは天寿を全うして、平安と幸福の内に神の御許に召された。私はあれほど多くを失って尚、町中の誰もが羨ましく思わずにはいられないほど満ち足りた生涯を送った者を他に知らない。
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兄弟達よ。以上が義人ヨブの身に起きたことの顛末である。いかなる災難に見舞われようとも、ヨブは正しく対処した。彼は主を呪うような真似はしなかった。神の課した試練は凄惨を極める出来事であったが、ヨブはそれでも神に背きはしなかった。ヨブは最後まで神を愛した。それ故に神はその義の千倍以上の愛で以てヨブに応えられたのである。
兄弟達よ。たった今、私は主を信じることの意味をおまえ達のこころの目に向けて垣間見せた。しかし、おまえ達の方では、今しがたあらわされた情景の真理を、しかとその目に焼き付けることができただろうか。「信仰が何になる」ではない。「主を信じたところで救われない」ではないのだ。信仰と救済とは、互いに離れたところにある何か別のものではない。信じること、信仰の道を歩むことは、善と悪を知り、また正義と罪を知る非力な我々に許された唯一の救済なのであり、その道はかの最初の園へと続いている贖罪の道なのである。その道を歩む足取りは主の与えたもうた善によって導かれ、これによって主の人知を超えた正義が人間を通じて立ち現れる。人間が主の正義へと加担する為の手立ては、永遠を見据える主の配慮によって常に用意されているのである。
兄弟達よ。それゆえ神と信仰についての考えを一刻も早く改めるがいい。おまえ達を導く唯一の指針はずっと天から与えられているにもかかわらず、おまえ達の方では邪な欲望に目を眩まされては自らの行き先はおろか己の出処すら見失っている。だからまずはさっさと己の欲望に見限りをつけよ。行き過ぎたことをするな。欲望に呑み込まれ、それに飼い慣らされるな。欲望からはその儚さを、おまえ達の弱さ、罪深さを知れ。何事においてもその向こう側には主がおられる。だから何事においても決して表面だけで満足するな。表層とは装いであり、主のまことは常にその奥側に隠されているからだ。喜びも楽しみも、悲しみも苦しみも、そこから何も学ばないようではただただ無益だ。おまえ達はだから日々の経験を、過去の叡智を、そしてまた主の創造された被造物をそれぞれ鏡として、未だ覗いたことのない己の内側にまで目を向けよ。その先に主を呼び求めよ。しかし決して不平不満を述べるようにではなく、ヨブのように、際限なき主への愛と畏れから、主を呼び求めよ。主に問う時は正しく問え。泣き叫ぶことはあっても、怒ることはするな。そうしなければ、おまえ達は苦しんで死ぬ。死は救済にはならないで、おまえ達の傲りに満ちた罪過を永遠に責め立てて焼き続ける盲目の炎となる。死体は荒れた道端に放置され、鴉がその腐った肉を啄みに来る。他方で主の道を歩んだ者のいのちは、定めの時に従って、主が刈り取ってくださる。かの人は平安の内に主の御許へと召され、天の幕屋に加えられる。
私の話を聞いて、理解したのなら、いち早くこころを改めて、我らが主へと立ち帰って欲しい。主がまさにそのことを望んでいらっしゃり、私達をお試しになっていることを、私達は主から賜った良心によって知るのである。そしてこころを改めた後に、主と共にあって、私と目下の焦眉の難題について協議して、この困難を乗り越える道を共に見つけ出そうじゃないか。その時、私達はもう誰も目先の誘惑にのせられない。その時、私達はもう誰も保身に走らない。その時、私達一人ひとりの手は誰かにとっての足となり、またその時、私達一人ひとりの足は誰かにとっての手となるだろう。
同じ大地から日々の糧を得ている兄弟達、同じ言葉を分かち合う友人達よ。今からでも遅くはない。私はおまえ達の内の一人ひとりに語っている。だからどうかおまえ達の方でも、それぞれがその一人ひとりとして、これまでの私の言葉を受け止めてくれるようお願いする。私にできるのはそれだけだ。あとはすべて神である主が、その遠大なることこの上ない摂理に従って、自らの義を正しく世にあらわしてくだることだろう。
以上が、バラクエルの子エリフがその生涯の終わりに際して語った言葉である。彼はこの数日後に、聞く耳を持たなかった同胞の手によって、異教の生贄として無残な暴虐の犠牲となって天に召された。
彼の勇敢で実直な言葉を、今まさに試練の最中にあるカナン全域とその周辺とに住まう、敬虔かつ真っ直ぐなこころを持った、信仰厚き我らがまみえざる兄弟に向けて配布する。
我が親愛なる友エリフと過ごした故郷を離れて。
エジプトの地。我らが主に愛されし、誉れ高き主君ヨセフさまのご庇護の下。