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絶望者と旅芸人

 今年も旅芸人の一座が町にやって来る季節になった。一行は町の宿に、まだ宵闇が深い時の静かな内に到着すると、その日の夕暮れになって、銘々奇抜な衣装を身にまとって言い伝えの歌や踊りを披露し、また一部の常人離れしたパフォーマーが驚異的な曲芸の数々を繰り広げ、町人たちの心をつかんだ。

 とりわけ人々が熱狂したのが猿真似を得意とする長身の軽業師だった。彼の人気は凄まじかった。軽業師は道化の恰好をしており、どんな種目の芸でも一通りこなすことが出来たが、しかし彼はそれを猿の真似をしながらやってのけたので、ただでさえ素人を驚かすに十分な離れ業が彼にあってはその上さらに珍妙かつ新奇で、誰の目にも面白かった。彼を取り巻く観客の中から、口を大きく開けて声を出して笑っていない人をあえて探し出してみたところで、結局一人として見つからないに違いなかった。愉快なロマ音楽に乗っかって、道化の恰好をしたこの猿は持前の長い手足を器用に動かして玉から玉へと乗り移り、またジャグリングをこなしながら格子状の綱の上を渡ってみせたり、バナナや栗を投げ与えられれば芸の途中だろうとお構いなし、無我夢中で歯を見せながら小刻みに食らってみせたりした。軽業師は芸の間中はずっと浅黒い首とくりっとした目ん玉を絶えず動かして、完璧な猿の挙動を演出し続けた。それは一瞬たりとも途絶えなかった。ときたま芸に失敗する場面があっても、猿真似をしたままきょとんとおどけた表情を見せてごまかすものだから、そこでもどっと笑いが生まれて、へその曲がった観客などは初めから失敗するつもりだったんだと疑ってしまいたくなるほどだった。

 夜が深まり、やがて会場の灯が消されて、その日はお開きになった。今日、町のほとんどの住人がこの場所に集まり、笑い、そして泡沫の心地よい夢のようにぱっと消え去っていった。明日もまた西の空が赤紫色に火照る頃合いに、今日あったことがそのままそっくり繰り返されるだろう。人々はどこからともなく集まって来て、目前の驚異に目を見張り、笑って、そして帰ってゆくだろう。しかし辺りがほぼほぼ静かになって、一座の大半の人間が作業を終えて宿に引き上げたにもかかわらず、ひとりその場を去ろうとしないで、もじもじと辺りをうろつき回っている男がいた。

 最後まで後片付けに残っている一座の下っ端の人間がこの男の存在に気づいた。しんとした夜の暗闇もその腰を据えつつあったが、現場の数少ない作業灯の明かりの下でも、男が一座の人間でないことは一目で判断できた。

 下っ端の人間はなるべくゆっくりと近づいて、相手を驚かすことのないよう礼儀正しく声をかけて、自分たちに何か用があるのか尋ねた。すると男は多少面食らったようなうろたえた様子を見せたものの、しかしおどおどしながらも次にははっきりとした調子で、自分を軽業師に会わせてくれるよう頼み込んできた。

「お願いです。どうかあの人に会わせてください。少しばかり話がしたいんです」

 それから一座が泊っている宿まで来た。男が猿真似を得意とする道化の軽業師の部屋に案内されると、彼はちょうど鏡台に向かって化粧を拭っている最中だった。やけに明かりの強い部屋で、入った瞬間から酒の臭いがつんと鼻を突いた。きっと先ほどまで、彼の何人かの仲間がこちらに来ていて、一緒に楽しんでいたのだろうと推測できた。

「どうぞ。適当に楽にしてください」

 軽業師は落ち着いた口調で、鏡越しに奇妙な訪問者を見やりながら声をかけた。

 男は戸口で呆然と立ち尽くしていた。そして一呼吸か二呼吸のちに「はい」とやっとのことで答えると、シーツも敷かれていないベッドの端に腰かけた。ほかに座れそうな場所はなかった。床には曲芸で使う小道具や瓶、豪勢な衣装やら何らかの箱やらが散乱していて、その一つひとつを避けて歩くのには結構な注意を要した。

 そのまましばらく黙っていた。男は軽業師が何やら鼻歌を歌っているのに気がついた。その時はわからなかったが、後々それが芸の最中に流れていた音楽だと合点がいった。

「どうかしましたか」

 軽業師は訪問者に尋ねた。明らかに、この黙り込んでいるばかりの男には部屋の重苦しいまでの静寂に気圧されている節があった。

「今日、あなたの演技を見ました」と男はどもり気味に答えて、口を噤んだ。

 着こんだおんぼろの下で男はびっしょりと汗を掻いていた。深く首を垂らしながらどうしたものかと姿勢の正解を探しているうちに肌着が離れてはひっつき、冷たく感じてようやく自分でもそのことに気づいた。

「そうですか。ありがとうございます。それで、どうでしたか」

「そりゃもう、素晴らしかったです」静かに緊張した興奮のあまり変に上擦った声で男は答えた。「それで、とにかく感動いたしましたので、是非ともお礼の一言でも申せたらと思いまして」

 化粧を落とし終えて、軽業師はようやく顔とからだを来訪者の方に向けた。そして「それは有り難いですけど、まさか私を褒める為だけに来たわけじゃないでしょう」と言って軽く笑った。

「ええ。それはそうですが」

 男もまた笑ったが、それが何か誤りだったような気がしてすぐに押し黙った。

 化粧を拭った軽業師はえらく美男だった。短く整えられた髪に、才気を感じさせる額からすうっと伸びた鼻筋、そこに目頭の尖がった両の目と大きめの薄い口がバランスよく配置されており、訪問者の男でさえ内心思わずぎょっとした。身長に釣り合わない椅子に腰かけた目前の落ち着き払ったこの人間が、つい二、三時間前まで道化の姿で猿真似をしてきーきー言っていたとは到底考えられなかった。

「何かお困りですか」

 男が呆気に取られていると、軽業師が助け舟を出すように言葉を差し伸べた。

 事実、男は頼み事があってここまで来たのだった。今日、日が暮れてからの仕事終わりに、町の噂で知り合いたちと久々に曲芸を見に来た。そして軽業師の演技に心を奪われて、いてもたってもいられなくなり、衝動的に、運に恵まれてのことではあるがこうして訪問にまで漕ぎ着けた。他方で、そのくせ自分の頼みが聞き入れられる自信がなかったので、遠慮がちに、卑賎なまでに弱々しく出て、今はここぞというところで頼み事をするそのタイミングを見計らっているようだった。

「どうぞ何でも言ってください。遠慮なさらないで。言ってみるだけならタダです。お力になれるか分かりませんが」

 軽業師が見ると、ベッドの端にちょこんと腰かけた訪問者の手足は震えていた。男は酷い身なりだった。所々、端の部分がほつれたり擦り切れたりしている服装はまだしも、何よりも声音や肌の張りとは裏腹に白髪の混じった脂ぎった髪の毛と、家のない老人のような口髭と欠けた歯が、男の全体的な印象を暗鬱なもので支配していた。そしてもう長いことうなだれっぱなしの首にかかった陰の中から、青年のような黒々とした丸い瞳が当てもなく雑然とした床の方をさ迷っていた。

「それじゃ、申し上げさせてもらいますが」男は居直ると、荒い呼吸に震える声でそう口にして視線を軽業師に向けた。軽業師は顔の筋肉をひとつも動かさないで、男が話を続けるのを待っていた。

「どうでしょう。つまり、どうか、是非とも俺を連れて行ってください。あなた方の一員として、俺を雇ってはくれませんか」

「それは、どうでしょうね」軽業師は声音を落としもせず上げもせずに答えた。

「お願いします。曲芸は何もできませんが、これから覚えます。手先は器用です。ギターもちょっとなら弾けます。最初は下男としてで結構ですので」

 ここぞとばかりに男は必死に食らいついた。勢いでベッドから落ちて、そのまま四つん這いになって、軽業師の顔を見上げた。

「ずっと息を止めて生きてきたんです。自分を押し殺すようにして、数ばかりを数える仕事の毎日を。それで、まだ三十路にも満たないのに、生き過ぎてしまったみたいなんです」

 男は懐から赤茶けた紐の付いた麻の巾着を取り出すと中身を床にぶちまけた。場違いな額の硬貨が、呆気なく部屋の四隅に散っていった。

「金ならあります。最初のうちは無給でいいです。いや、金なんていりません。寝るところと食う物を用意していただければ、それ以上は望みません。この金も全部差し上げます」

「そういう話でしたら、私ではなく主宰にしてもらわないと」

 軽業師は立ち上がると、散らかった床から硬貨を一枚いちまい丁重に拾い始めた。「とは言え、無理ですよ。申し訳ありませんが」

「お願いします。もうここにいたくないんです。あなたが連れて行ってくれないというのなら、俺は死にます。その方がマシです」

 しかし男の熱烈な言葉も空しく、軽業師は至って冷静沈着だった。

「ちょっと話しましょうか」一度、硬貨を拾う手を止めてから軽業師は言った。「あなたみたいな人は、別に珍しくありません。二、三町を回れば、一人は出てきます。ですから私は、あなたが何でここまで来たのか知っています。あなたが何を求めてきたのか。実を言うと、ここにいる人たちなんてみんなそうなんですよ。ほら、ここまであなたを連れてきてくれた彼も、元々はあなたと同じような境遇だったんです」

「なら、俺だっていいじゃありませんか。なのに」

「ただ余裕がないんですよ、これ以上は。もう誰も雇えません。だいたい二十年前に、私はこの一座に加わりました。当時は五人もいれば、一つの町を相手にうまい商売が出来たものです。ですが今じゃどうですか。何人いるか分かったもんじゃありません。救いや希望、憧れにつられるままに押し寄せてくるあなたみたいな人たちのおかげで、私たちの組織も遂に一杯いっぱいになってしまったわけです」

「でも、そこをどうか。たった一人増えるだけです」

「先ほども言いました通り、当方にはもう余裕がないんですよ」軽業師は語気を強めて言った。「私たちだって、やれることはやってきたんです。誰彼構わず拾ってきたわけじゃありません。志を同じくする技能ある者たちを率先して救ってきました。ただもう限界なんです。赤裸々に言えば、来季まで持つかどうかすら危ぶまれているのが現状なんです。それも私たちの組織に限った話じゃありません。どこの集団もそうだと伺っています。元々厳しい世界なんです。膨張の果てに潰れてしまった組織を数え上げたら切りがありません」

 軽業師は窓枠に置かれた飲みかけのビール瓶を手に取ると男に渡した。

「それじゃ、俺を見捨てるんですか。どれだけ頼んでも、無駄なんですか」

 沈鬱なため息交じりにそう尋ねる訪問者に対して軽業師は無言のままだった。が、同時に彼は決して目前のこの惨めな歎願者から目を逸らしはしなかった。

「俺を哀れに思ってください。救われない自分が憎いんじゃありません。己を救わない自分が憎いんです。あなただって、そうなんじゃないんですか」

「それは、全く度が過ぎたことです」と軽業師は強めに言った。そしてちょっと考え込むと、再び元の穏やかな調子に戻って話を続けた。

「もしかしたら、ここよりもずっと東にいったところなら、どうにかしてあなたを助け出せるかもしれません。そこにひとつだけ当てがあります」

「でも、俺はあなたがいいんです。あなたに魅せられたんです」

「それは我儘ですよ。東にいる男を頼みにしてください」

 男は不服だったが軽業師が相手ではこれ以上強く出れなかった。何やらぼそぼそと悪態をつきながら、男は静かに身を動かしてベッドの端に座り直した。ぎりぎりのところで涙をこらえているといったふうだった。

 みすぼらしい訪問者のいじけた態度を前にしても、軽業師からは吐息の変化ひとつすら出てこなかった。むしろ首回りの筋肉の動きや瞬きといった細かな所作はより統率の取れた冷静沈着なものとなって優雅さを増し、そのすらっとした顔つきはより怖ろしいものにさえなった。

「私はそこに、とても面白い男がいると聞いています」軽業師はこれまでとまったく同じ調子で話を続けた。が、ほんの少しの沈黙を挟んだせいで、その声音にはどうしても相手を切りつけるような鋭さが付帯していた。「正確に言えば、どうやら人間とも違う存在らしいですが。私自身、直接会ったことがあるわけではありません。ですがよく耳にします。町を回れば、必ず何かしらの新しい情報が出てきます。そして今、彼は確かに東の方の町にいます。私はどの町かは知りませんが、ここからずっと東だということははっきりしています。勿論、彼のいる場所がいつも東だとは限りません。今回はたまたま、あなたの住むこの町からして東に位置していたという、それだけのことです。本当は彼も場所を選ばないそうです。今のあなたの助けとなってくれるのは、彼のところを除いてほかにないでしょう。というのも彼のところは、救いを求める者なら誰でも受け入れるという点で、当方やほかの巡回の旅に出ている者たちを含めた、ありとあらゆる別の集団から区別されるんですから」

 軽業師の話を聞くと、男はこれまでにないきょとんとした表情を見せた。そして「ちょっと待ってください。どういうことですか、それは。というより、いいんですか。そんな」と、露わな当惑をそのままに途切れとぎれに言葉を発した。「そんな、救いを求めさえすれば、誰もが救われるだなんて、そんなうまい話があって」

 軽業師は笑った。

「そんな話があっていいのかですって。面白いですね。もちろん私たちには無理ですよ。でも彼なら出来るそうです。仕組みは分かりませんが、事実、彼のところはもう長いこと続いています。彼は自分ことを、メシア、と呼んでいるそうで。私がまだやんちゃな坊主だった頃に、祖母が彼について話して聞かせてくれたのを覚えています。だから、彼はずっといるわけですね。疑う人も多いみたいですが、所詮は時に潰えゆくさすらい人に過ぎない私たちとしましては、延々と成果を上げ続ける彼の仕事ぶりには毎度のように驚かされてきましたし、それゆえ常に一定の敬意を払ってきました。当方の連中がそこに行き着く日も、もしかしたらそう遠くないのかもしれません」

 そして硬貨を一枚残らず拾い戻した巾着を男に手渡すと、軽業師は戸口の方に向かって行ってドアを開けた。

「さあ、すみませんがもうお引き取りを。私も明日の準備がございますので。聞いた話だと、彼の許に向かう一行が、ちょうど明日の朝出発するとのことです。ここから二つ南に行った町です。そう遠くはありません。夜もすがら歩けば、難なく間に合うでしょう。仮にそれを逃したとしても、何日か待てば、その隣かまたその隣くらいの町から、すぐに別の一行が出発するはずです」

 訪問者は中々立ち上がれなかった。男が訪れた時と違って、その時にはもう廊下の明かりが消えていた。その場から見えた範囲ですら、明かりの灯った手提げランプか燭台でも持って行かなければ足元も見えないほどに暗かった。藁にも縋りたい思いだった。

「その人の許に行ったとして」と男は静かに口にした。「そこで俺はどうすればいいんでしょう。仕事は何をすれば。生きがいは見つかるんでしょうか」

 軽業師はくすっと笑って言った。「そんなことは私に聞かないでくださいよ。それはあなたが見つめるべき問題です。正直に言って、彼の場所があなたに合うかは分かりません。思うに彼があなたに手を貸す方法は、恐らくあなたが私たちに期待する方法とは正反対のものです。とはいえ、一度行ってみることをお勧めします。時間の無駄にはならないでしょう。あなたの真摯な姿勢を見れば分かります。もし端から行く気がなかったら、それでも構いません。そしたら、明日また私たちの出し物を見に来てください」

 軽業師はその場から動くことなく手を差し伸べて訪問者に別れの握手を求めた。程なくして立ち上がった男はなるがままにその手を取って視線を落とした。

「ごめんなさいね。私たちのところは、どうしたって時期が悪いんです」

 男の力ない手を固く握りしめながら、軽業師は続けた。「いいですか。行くかどうか、迷っているのでしたら、一度行ってみることです。そしてそこでの日々の暮らしに、生真面目なまでに自分を入れ込んでみてくだい。救われるにせよ、救われないにせよ。それでもまだ私たちのことが忘れられなかったら、その時はもう一度訪ねて来てください。うまくいっていれば、私たちもまだ巡回の生活を続けられていて、新たに人を雇う余裕もできているかもしれません。またその際は是非貴重な経験の数々をお聞かせください。私自身、向こうでの生活には並々ならぬ関心を抱いておりますので」

 それから軽業師は男を宿の外まで見送った。軽業師の話しぶりとその対応は義務的でさえあったが、ただ印象として全く熱意がこもっていないというわけでもなく、真面目に話しているのか適当にあしらっているのか甲乙のつけ難いところだった。

「これだけ誓わせてください。もし仮に私たちが再会することがありましたら、以降は私もあなたのことを自身と旅路を同じくする同盟の友として扱います。そして決して見捨てるような真似はしません」

 もう最後の最後となる別れの挨拶を済ませてから、更に軽業師は訪問者に告げた。「ですがその時には私はあなたにも、それ相応の覚悟と責任と、秀でた技能を求めます。実際それらの前提なしには、私たちと行動を共にするというのは考えられないことですので。ですからその時までに、何か業の練習を積んでおいて、優れた技術を身につけておいてください。とはいえ、本当にそんな日が訪れるかどうかは分かりませんが。ですがそうなったらきっと、それはそれで素晴らしい旅の日々が、今よりも更に経験と見識を深めた私たちを待ってくれていることと思います。誠に勝手で申し訳ありませんが、ほとんど根も葉もないそのような未来を頭の片隅に入れておきながら、私はあなたのことを忘れないでおきましょう。あなたの方でも、少しでもその気がありましたら、私たちのことをずっと覚えておいてください。可能性は常に残しておくべきですからね。いいですね。ですがそれまでは、私はあなたを他人のままにしておくでしょう」

 そう言って軽業師は深々とお辞儀をした。訪問者はその場をあとにした。